Weblio辞書で検索したところ、
「批判(ひはん)」とは、
(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
「学説―」「―を仰ぐ」
(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
「政府の外交方針を―する」
(3)〔哲〕〔(ドイツ) Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。
また、上記(2)にある「あげつらう(論う)」とは
物事のよしあしについて論じ合う。また、欠点・短所などをことさらに言い立てる。
「過去の失敗を―・う」「細かいことを一々―・うのは控える」
とある。(いずれもWeblio辞書 三省堂 大辞林 より)
私は何につけ批判的な考え方・発言をする人間であることは間違いない。むしろ、敢えてそういう立場でいようとしてきたと言っても良い。
私的には、間違っていると思ったことは指摘すべきで、決して論う=ことさらに言い立てているつもりはないのだが、しかし、どうやら相手方にそうは受け止めもらえないことが多くなってきたようだ。
これまでは話せば分かる、分からせるという自信があったのだが、どうやらそうでもないことが最近多くなり、自信を失いかけると同時に疲弊することが多くなってきた。
仕事の面でも、それ以外でも。
私は他人に対して批判的である一方、自分に投げかけられる批判的な言葉も大事にしてきた。先輩後輩に関わらず、そうした批判的な言葉に耳を傾け、その時の自分が本当に間違っていないのか、どこかにブレが無いか、ほころびが無いか、ひとりよがりになっていないか、いつも気にしてきたし、もちろん今もそうしている。
例えば大学運動部の監督時代、今なら大問題になりかねないぐらいグラウンドで選手たちを殴ったり蹴ったりしていたが、部員たちの言葉には素直に耳を傾けていた。それで、例え部員からの批判でも、間違いに気付けば直ぐに改め、間違ってないと思えば、批判してくれた部員が納得するまで丁寧に話し合った。(実は殴ったり蹴ったりも、当時の部員に指摘されて大幅に少なくなったということがある)
批判的な言葉を受け入れない場合、この話し合いが無い。
「こう思うんだけど?」という批判的な言葉に対して、「いや、私はこう思います」で終わり。それで良いのだろうか? (← というこの言葉さえ、批判的だと言えよう。全く私は批判的な人間だ)
ネットで「批判的な人」と検索すると、まさに否定的な言葉が並ぶ。私にとって「批判的な言葉」とは、良かれと思ってしたことではあるのだが、受け止める側がそう感じないのであればすべきではないのだろう。これまでは、それこそ「嫌われても良い」と思って言ってきたことだが、それこそ受け入れてもらえないことで私自身が疲弊してしまっている。すなわち、批判が批判にすらなっていないという虚しさ。
孔子は、
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
と言ったが、凡人の私は当然ながら40代になっても惑うことばかり、あと2年ほどで50代になろうとしているが、自分が何をすべきなのか知ることができるのはいつになることやら…
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