フットボールチームの監督コーチと選手の間には信頼関係は成立し得るだろう。
「勝利すること」という同じ目標に向かって、実際にプレーする選手と、プレーはできないがそれをサポートすることで目標達成に貢献できる監督コーチ。信頼しあうことで目標により早く、あるいはより近づくことができる。
監督コーチと選手は労使の関係ではない。
少なくとも、大学スポーツにおいてはそうだろう。選手は監督コーチから給料をもらっていない。それに代わるものが信頼なのだろうか?労働対価としての信頼?
とすると、対価として給料をもらっている関係の労使において、信頼はそもそもあり得ないということか?!
目標というか、同じ理念の上に立っていることに間違いはないはずなのだが、労使という違った立ち位置から理念を見上げると、全く違って見えるのだろうか?
見えている目標が違っていれば、当然会話も噛み合わず、信頼関係など生まれるはずもない。
監督コーチが見ている勝利と、選手が見ている勝利は違ったものなのか?
OBが見ている勝利もまた違っているのだろうか。
信頼関係が無い中でやらされる練習ほどつまらないものはない。
ただ疲れるだけ。疲れるためだけにやらされる練習。
本当に無駄だ。
信頼関係があると、どんなにキツい練習でも目的を見い出すことができ、途中で投げ出すことなくやり甲斐を感じてやり遂げることができる。結果、チームは強くなり、さらにキツい練習にも取り組めるようになる。
小さな成功体験の積み重ねが大きな成功を生み出すと考えているが、最初の小さな成功体験をいかに作り出すか、という最も大切な部分が軽んじられることが多い気がする。
労使で信頼を求めることは、無意味なんじゃないだろうか。
監督コーチが選手たちを勝たせるためには自己犠牲を厭わないのと同じような関係を労使に求めるのは無理なのだろう。今の世の中では。昔はそういうことがあったのかもしれないが。
信頼関係の築きようがない関係って、何なんだろう?
ライバル同士だって、ある意味、信頼関係を築けるというのに。
やりきれない、つまらない関係?!
うーん、謎だ。
もう少し考えてみよう。