3/25/2017

12時間睡眠

このところ睡眠不足で困っていたが、昨日は21時頃に寝落ち、今さっき、9時に目が覚めた。

12時間睡眠。

睡眠不足で死ぬ前に眠っちゃうから寝る間を惜しんで4年間頑張れ、と学生たちに言っていたことを思い出したが、さすがにこの歳で睡眠不足は堪える。

科学的に寝溜めはできない、と最近何かで見た気がするが、何とか今朝は睡眠不足を解消できたような気がする。

3/24/2017

昨夜は、

ビール500mlのチカラを借りて入眠。
良くないなぁ〜。

でも、夜中に一度目が覚めただけで、久しぶりにぐっすり眠れた。

3/23/2017

睡眠不足…

最近、また何日も睡眠不足。
寝付けず、寝ても夜中に何度も目が覚め、朝も早く目が覚める。

ストレスだな。
寝る時思い出し、イライラしてあれこれ考える。

知らない方が良かったとは思わないが、いろいろなことを知って苦労してるのは確か。
今さらながら、オトナってのはたいへんなんだな、と思う52歳の春…

3/16/2017

追い出しコンパ

昨夜は、Kayaksの追い出しコンパに参加してきた。


ほとんど全く関わりを持たなかった四年生ではあったけど、Kayaksの後輩として今後の長い人生を良きものとして欲しいと強く思った。


今回も、副部長として閉会の挨拶をさせていただく機会を得、何もしてない名ばかり副部長なので申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、以下4点をお話しした。


1. アメフトなんてたかがボール遊び、社会はもっと厳しい。

2. とは言え、大学4年間でのアメフト経験を自らの意思で生かすことが大事。

3. 卒業後も、できればアメフト、そうでなくても何らかのスポーツに関わって欲しい。

4. 卒業後も、時間に余裕がある時は是非試合を見にきて欲しい。


同期僅か4人と少ない第41期ではあるが(私は11期なので、あれから30年経ったのか…)皆さんの今後ますますのご活躍を心からお祈りし、応援しています。



3/14/2017

雑感

古い価値観に縛られて前に進めない。

誤った悪い印象を広められてばかり。

伝えたいことが伝えたいとおりに伝わらない。伝える力が足りないのか、聴く耳を持ってもらえないのか、同じことか。

道理が無いことがまかり通る。

ルールをその時々で勝手に変えるな。

権力は弱者のために使え、自分を守る盾に使うな。

実力が無いから権限を委譲できない。

感情的になって権限を振りかざすが、冷静に考えて、あなたにその権限は無い。

それでもこの環境に支配されないためにはどうしたらいい?

義を貫くのは自己満足か?
誰に対して貢献すべきなのか?

3/11/2017

震災から6回目の3.11 雑感

平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災から丸6年が経過した。
亡くなられた方々にとっては7回忌となる。

朝ご飯はニュース番組を見ながら食べているが、この1週間は連日震災関連の映像が流れるので、嗚咽しながらご飯を食べていた。

歳をとると、涙もろくなる。

私は時々、ボランティア学生たちのドライバーとして被災地へ行くことがある。
最近で言うと、雄勝や牡鹿、気仙沼。がれき撤去がまだ必要だったころは、石巻や亘理、南三陸町へも行った。震災以外でも、台風による河川の氾濫や土砂崩れといった災害ボランティア活動として、滋賀県や広島県、栃木県へ行かせてもらったことがある。

私は元来人見知りで、出不精で、消極的な性格だが、ひょんなことから災害ボランティア活動にほんの少しだけ関わることができて、ほそぼそと今も関わっている。

元々、当時監督をしていたアメリカンフットボール部の部員たちをマイクロバスに乗せて合宿へ行くために取った中型免許だったが(マイクロ1台に乗れるぐらい部員が少なかった)、震災直後発足した東北学院大学災害ボランティアステーションがマイクロバスを運転できる教職員を探していて、そう言えばあいつできるなって感じで白羽の矢を当てられた、というのが関わるキッカケだった。

なので、今もそうだがドライバーという立場での関わりでしかない。
被災地へ行く時はいつも責任者となる教員が一緒で、仕切りはその先生が行って、私は学生たちの後ろにくっついていく、ただの運転手さんだった。

既に40代中盤となっていたが、泥かきしたり家具を搬出したりといった肉体労働は嫌いじゃなかったので、現地に着いてしまえば学生たちと一緒にボランティア活動に熱中した。泥かきは喋らなくて良いので、人見知りの私もストレスなくできた。ただ、あくまで関わり方は消極的というか、単なるドライバー? 一歩引いた位置に常に自分を置いていた。というか、性格的にそうなってしまっていた。

今は仕事でも関わりがある教員とは、石巻へ向かうボランティアで知り合った。大学はキャンパスが3つあるので、顔を知らない教員はたくさんいる。彼もその中のひとりだろうと思っていたら、この4月に採用になったという。この4月って、2011年の4月。ボランティアステーションに関わりだした時は、まだ採用前(3月)だったとのこと。それでも、もう既に学生たちを率いて中心的に活動していた。いや、年齢的には私より5〜6個下なだけで十分大人、というかオッサンだったけど、その日朝に知り合った学生たちを率いて、現地の社協と打ち合わせして、すごいなーって、当時は本当にそう思った。

よく考えてみれば大したことじゃないんだけど、そういう風に感心してしまうぐらい、私は物怖じする性格だということなのだろう。これが本当の自分なのだ、とつくづく思う。

震災による泥かき作業を実際に行ったのは、5〜6回だろうか? そんなに多くない。
すごくたくさん行った気がしたが、よくよく振り返ってみると、きっとそんなものだと思う。

泥かき作業がひと段落すると、ボランティア活動は被災者の心に寄り添うタイプのものへと移行し、口下手で人見知りな私には参加が難しくなり、しばらくボランティア活動から遠ざかってしまった。

そして、2013年9月、台風18号によって被災した滋賀県へ災害復旧ボランティアとして本学から学生たちを派遣する際に声を掛けていただき、また、2014年9月には豪雨災害に対するボランティア活動として広島県に派遣していただいた。

いずれも、スコップで泥さらいをするといった肉体労働である。
が、さすがにこの頃になると寄る年波には勝てず、「引退」を考えるようになったことが思い出される。(結局52歳になった今でも肉体労働を伴う活動に嬉々として参加しているが)

滋賀や広島への遠征がきっかけで再び災害ボランティアステーションとの関わりが生まれ、その後、牡鹿や雄勝、気仙沼での活動(運転手さんとしてね)に関わるようになった。

相変わらず人見知りで口下手なため、同行するボランティア学生たちともそれほど上手く関われないし、現地の方との交流もさっぱりできない。それでも、安全運転で学生たちを現地に送り届け、大学まで帰って来させることに集中し、帰りの車内で爆睡している学生たちを見ると、少しは自分も役に立っているな、と実感することができる。

私はうんと薄っぺらい活動しかできていないということを特に最近強く感じている。だから何?っていうことではなく、そう感じているということ。自分にはそうしかできないし、それでも結構満足です。

あの日から6回目の3.11に雑感として記す。


以下、備忘録的リンク集

災害ボランティア関連のピックアップ記事 2011年04月20日(水)<以前のブログ>
花壇作りボランティア 2012年7月10日
出発 2013年9月21日
人生初 2013年9月22日
エポック立命21 2013年9月23日
台風18号被害復旧ボランティア 2013年9月24日
ボランティアコーディネーション力3級検定 2013年11月9日
初広島 2014年9月7日
丹波へ 2014年9月8日
ポーアイへ 2014年9月10日
再び広島 2014年9月20日
活動1日目 2014年9月21日
活動2日目 2014年9月22日
無事帰仙しました 2014年9月23日
牧沢仮設 2015年2月15日
再び牧沢へ 2015年4月19日
今月も牧沢へ 2015年5月17日
大崎市へ 2015年9月25日
栃木県鹿沼市での豪雨災害ボランティア 2015年10月5日
女川カレーラーメン(小渕浜ボランティア) 2015年12月25日
牡鹿の魅力に触れてみよう 2016年2月9日
久しぶりに牧沢へ 2016年3月20日
小渕浜漁業支援 2016年4月1日
小渕・給分浜現地交流スタディーツアー 2016年11月27日
ガーデン移転のお手伝い 2017年2月19日
第5回被災地ウォークinおがつ 2017年3月6日

3/06/2017

第5回被災地ウォークinおがつ

3月5日(日)午前10時から「第5回被災地ウォークinおがつ」が行われ、東北学院大学災害ボランティアステーションの学生スタッフ・ボランティア学生らと運営のお手伝いに行ってきた。

オーリンクハウス(O-LINK HOUSE)という民営公民館に集合し、運営委員長である雄勝診療所の小倉先生のご挨拶で開会。途中、語り部の話を聞きながら、およそ2kmの道のりを歩いた。


最初の語り部は、雄勝病院跡地で。
当時雄勝病院で看護師をしていたが、震災当日は休みだった方のお話しを聞いた。
海の目の前にあった3階建ての雄勝病院は、屋上まで津波が押し寄せ、医師・スタッフ・入院患者ら60名余が亡くなったとのこと。


震災直後の写真パネルを掲げているのは、本学災害ボランティアステーションの学生スタッフやボランティア学生たち。参加者たちは献花をし、次の目的地へ向かって歩いた。

狭い歩道を歩くので長い列になる。


盛り土がされて土地のかさ上げ工事が今も行われている真っ最中。
ここには確か復興住宅が建設予定だとか。手前の方には商店街が作られる計画らしい。


その後、「店こ屋街」向かいの空き地で、当時中学生だったという男子大学生の話を聞いた。震災当日は卒業式だったとか。
海抜15mのところに家があったが、それでも2階まで津波が押し寄せたという。


店こ屋街で小休止。
熱いお茶やココアを参加者に提供するのは、本学災害ボランティアステーションの学生スタッフたち。


店こ屋街の八百清(やおせい)さんは、この3月で店じまいだそう。


続いて、新山(にいやま)神社前で語り部さんの話を聞く。
ここは、すぐ隣が雄勝小学校跡地(写真の左側)。語り部さんは、佐藤麻紀さんといって、一昨年の夏に雄勝を訪れた際にもお話を伺ったことがある。今回の話は、時間の都合もあって後半は端折られていたが、それでも胸に深く突き刺さる言葉だった。


下の写真は、上の新山神社の赤い鳥居が写った写真のすぐ左側。白い車の上半分が写っているが、この車は上の写真で参加者が立っている地面に駐車している。写真だと分かりづらいが、車の奥の方は急な斜面になっていて、その上が林になっている。そのうちの一本に赤いテープが貼られていて、その高さまで津波がやってきたのだという。見えづらいので赤い矢印で記してみた。


写真だと分かりづらいが、立っている地面からかなりの高さである。
津波は、ちょろちょろと地面を這って矢印のところまで上ったのではなく、矢印の高さが「海面」になったである。つまり、私たちが立っている地面は、深さ10数メートルの「海底」になったということ。東日本大震災による津波の猛威をほんの僅かでも感じることができて、改めて身震いした。

一昨年の夏に来た際には、この木のあたりまで上ってみた。
かなり急な斜面で、小学生が上るのは大変だったろうと思う。
でも、写真の左手にあった雄勝小学校の児童たちはこの斜面を駆けあがり(小学校に残っていた児童たちは)津波の犠牲になることはなかったらしい。

被災地ウォークinおがつの終点は、雄勝ローズファクトリーガーデン。
ここで最後の語り部として登場したのは、本学学生のルっちゃん。震災以前の話から未来に向けての言葉を語ってくれた。


その後、伊達の黒船太鼓の力強い迫力の演技を見、


ガーデン内で、ダ・カーポの優しい歌声に耳を傾けた。


参加者の皆さんにはアンケートの記入をお願いしていて、回収には、本学災害ボランティアステーションの学生スタッフたちが活躍してくれた。


そして、あったかい「めかぶスープ」をいただく。


めかずを細切りにし、卵をとじた出汁のスープでいただく。冷えた身体にしみて実に美味かった。


今回のイベントにはNHKが取材に来ていて、インタビューを受ける学生スタッフもいた。


先月訪れた際に積み上げ始めた、ガーデン移転先の石垣。思ったより早く作業が進んでいてビックリした。



被災地ウォークとは別に、この石垣の上にラベンダーを植える作業を頼まれた学生たち。
千葉大学園芸学部の皆さんと一緒に、作業を進める。



そして最後は、うまく植えられたぜ、のどや顔で記念撮影。ラベンダーの花が咲くのが楽しみだ。


作業を終えて帰仙する途中、3.11が近いこともあって、学生たちに大川小学校へ立ち寄ること提案した。もしかしたら、余計なことだったかもしれない。予定にないことで、行きたくない学生もいたかもしれない。難しい判断だったと思うが、学生スタッフのリーダーも立ち寄ることに賛成してくれた。10分ほどの滞在だったが、今も当時のまま残る校舎を間近に見、亡くなられた方々に思いを寄せ、慰霊碑に祈った。

3/03/2017

菜の花イカ天うどん

最近ハマってます。
菜の花イカ天うどん、507kcal、410円。@学食。



この道は~ いつか来た道~

さくら野百貨店仙台店が2月27日、自己破産を申請して破産手続き開始の決定を受けた。従業員は全員解雇されたそうだ。

私は、小学校6年生までX橋(エックスばし=住所で言うと名掛丁)に住んでいた。
当時、さくら野百貨店は丸光(まるみつ)という名で、近くにエンドーチェーン(現 EBeanS [イービーンズ])や少し離れて藤崎や三越があったが、一番最寄りの「デパート」として丸光はとても身近な存在だった。

記憶は薄れてしまっているが、子供の頃の食堂やお菓子売り場の楽しかった思い出(初めて麦チョコを食べた時は衝撃的だった)と共に、夜9時になると聞こえてきた「この道は~ いつか来た道~」のメロディーは、ちょうど寝る時間でもあったので物悲しい思い出として強く印象に残っている。(ミュージックサイレン:ウィキペディア)

丸光は、その後ダックシティ、ビブレと名を変え、さくら野百貨店として続いていた。ほとんど利用しなくなっていたので無責任な発言となってしまうが、無くなってしまうのはとても残念だ。


<さくら野百貨店仙台>自己破産 負債31億円
河北新報 2/27(月) 12:16配信

 さくら野百貨店仙台店(仙台市青葉区)を経営するエマルシェ(同)は27日、仙台地裁に自己破産を申請し、破産手続き開始の決定を受けた。売り上げ減少が主因。代理人の弁護士によると負債額は約31億円で、社員やパートなどの従業員約120人は26日に全員解雇された。

 食料品など自前の売り場は閉鎖した。ドコモショップなどのテナントは営業を続けている。午前10時から取引先など債権者への説明会が市内で開かれ、約200人が出席した。青森、岩手両県にあるさくら野百貨店は青森市の別会社が経営している。

 東京商工リサーチ東北支社などによると、2006年2月期に193億2600万円の売り上げがあったが、郊外や近隣店舗との競争が激化。人気ブランド「H&M」などテナント誘致に力を入れたが業績悪化に歯止めがかからず、16年2月期の売り上げは79億3900万円まで落ち込み、4期連続の赤字となった。

 同社は1946年創業の丸光(仙台市青葉区)が前身。78年に丸光など東北の百貨店5社が経営統合して百貨店連合を設立。大手スーパー、マイカル(旧ニチイ)傘下として「ダックシティ」「ダックビブレ」と社名を変更しながら東北で6店舗を経営した。

 01年9月に経営悪化から民事再生法適用を申請。02年9月からさくら野百貨店に社名変更して再スタートを切った。05年4月に青森、北上など5店舗の経営を別会社に譲渡。10年8月からエマルシェとしてJR仙台駅前にある仙台店のみを経営していた。

 安藤俊社長は「ご迷惑をお掛けするお客さま、お取引先さまに心からおわびを申し上げます。70年の歴史のあるさくら野百貨店仙台店をこのような形で閉じることについては痛恨の極みというほかありません」とのコメントを出した。

最終更新:2/28(火) 10:01