5/31/2016

今日は走っても

雑念が頭から離れない。
煩悩というよりは、政治的な判断をどの手順で遂行すべきか、的な悩み。

ま、つまり、煩悩だな?!

5/23/2016

何だか洒落たお菓子

北海道在住のKayaks OBで、低迷するチームを見事に引き上げてくれた学年の主将、NBMCが先週末ひょっこり現れた。
相変わらず人懐っこい表情。こちらも自然と頬が緩んだ。

用事があって北海道から来仙したとのこと。
長くは話せなかったが、こうして会いに来てくれるのは本当に嬉しい。

土産に「小樽色内通りフロマージュ」をいただいた。
サクサクのラングドシャで濃厚なチーズチョコをはさんだお菓子。何だか洒落てて美味しい。

しばらく北海道も行ってないな。



5/18/2016

沖縄そば

沖縄そばを学食にて。
肉はちょい味濃いめだけど美味しい。スープとそばは、本場の沖縄そばを食べたことがないので分からないけど、そばにコシがあったら良かったかな。


5/13/2016

ナイスウラミアン

学食の北海道・沖縄フェアメニュー、ナイスウラミアン 453円 594kcal。


ピリ辛味噌スープのラーメンで、トッピングはアスパラ、水菜、海藻、そしてスライスチーズが1枚。

ナイスウラミアンって、どこで区切れば良いのか分かりづらいが、どうやらナイスゥ(チーズ)ラミアン(辛い麺)というアイヌ語らしい。てっきり沖縄の方かと思ってた。

チーズが溶けて絡んだところが美味い!
ごちそうさまでした。

5/11/2016

労働者が、

卑屈になっていく過程を体験中。

5/10/2016

日曜にハーフマラソン走って、

月火と22時まで職場にいたら疲れた。
普段17時に退勤してるからな。

5/08/2016

無事、完走しました

第26回仙台国際ハーフマラソン大会、無事、完走しました。

今日の仙台は、午前10時5分のスタート時点で既に20℃を超える陽気。
その上、風がやや強く、体感温度には有利なものの、風向きによってはずっと坂道を上っているかのようで、残念ながらマラソン日和とは言いがたい感じ。

でも、暑い方が何だか知らないけど燃える性格なので、こりゃイケるかな?と思ったんだけど、スタートしてまず最初の角を曲がる前、だから、100メートルも走らないうちから左足首に違和感…。

あれ?何か痛いぞ??

そして突然の尿意?!

あれ?したいぞ!!

まだ始まったばかり、するなら今か?
どこでする?陸上競技場に戻るか?
でもこの人混みをかきわけて戻れるか?!

などと考えながら走り、少しずつペースを上げていった。

今回は、iPhoneアプリのrunmeterで1kmごとにペースを確認しつつ、平均ペースで6分30秒/km以内、できれば6分前半(一桁秒)/kmで走ることを目標としていたので、左足首の痛みと尿意はずっと続いたけど、結構いいペース(6分2〜3秒/km)で走れてたので、そのまま走り続けた。

こういう時、痛みに強いというか、痛みに慣れているので楽だ。
いや、決してラクではないけど、これぐらいの痛みなら足がもげることはないな?みたいな変な自信?が持てるので、痛みを抱えつつペースを保って走り続けた。

おおよそ7〜9km付近の定禅寺通りは、毎年思うのだが、アスファルトが硬く、ここでいつも足が痛くなる。そしてその後の東二番丁通りも、最初に北上する時は気にならないが、定禅寺通りを通ったあとに南下する時は、やっぱり硬い。ずーっと硬くて、足が痛くなる。

今年は練習不足で、そのせいか体重が最近では一番重い。
そんなことも影響してか、今年もやっぱり両足共に痛くなり、15kmを過ぎたら次第に膝も痛くなり、おまけに腰も痛くなり…、結局いつもどおり古傷が痛み出してペースががくっと落ちてしまった。

それでも気合いでピッチだけは保ち(保ったつもり)、2年前に時間切れ失格となった最終関門を無事通過して、今年もQちゃんにハイタッチしてフィニッシュできた。

アプリを見てたら、今年は5回目の出場。
タイムは、(アプリの記録によると)
2012年 2:11:08
2013年 2:21:27
2014年 2:21:00(最終関門で時間切れ失格)
2015年 2:16:56
2016年 2:17:36
タイムは別として、走ったあとのダメージが年々キツくなってるのは、やっぱり老化かなぁ。


5/06/2016

備忘録(嫌われる勇気)

(要約等ではありません。完全に個人的な備忘録で、個人的メモも混在します)

30
たとえば大きな災害に見舞われたとか、幼いころに虐待を受けたといった出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません。影響は強くあります。しかし大切なのは、それによってなにかが決定されるわけではない、ということです。われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。

76
われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」

92
健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれる

われわれは「同じではないけれど対等

93
いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値がある

107
わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。

そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする

134
賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう。

136
承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。(承認欲求の話)

137
他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とします。適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから

183
「他者からどう見られているか」ばかり気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。

185
「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。

227
自己受容とは、(中略)「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと (ありのままを受け入れるだけではない↓)

229
ありのままの「このわたし」を受け入れること。そして変えられるものについては、変えていく”勇気”を持つこと。それが自己受容です。

「ニーバーの祈り」
神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」

われわれはなにかの能力が足りていないのではありません。ただ”勇気”が足りていない。すべては”勇気”の問題なのです。

231
他者信頼
他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと

233
裏切るか裏切らないかを決めるのは、あなたではありません。それは他者の課題です。あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいい (裏切られることを心配して信頼しないのではない)(もし裏切られたら↓)

235
悲しいときには、思いっきり悲しめばいいのです。痛みや悲しみを避けようとするからこそ、身動きが取れず、誰とも深い関係が築けなくなるのですから。

237
他者貢献
仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること。

242
ありのままの自分を受け入れる--つまり「自己受容」する--からこそ、裏切りを怖れることなく「他者信頼」することができる。そして他者に無条件の信頼を寄せて、人々は自分の仲間だと思えているからこそ、「他者貢献」することができる。さらには他者に貢献するからこそ、「わたしは誰かの役に立っている」と実感し、ありのままの自分を受け入れることができる。「自己受容」することができる。

247
対人関係がうまくいかないのは、(中略)自己受容や他者信頼、または他者貢献ができていないことが問題なのに、どうでもいいはずのごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。それは人生の調和を欠いた、誤ったライフスタイルなのです。

271
われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべき

過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。

272
いまできることを真剣かつ丁寧にやっていく

275
人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないこと

278
一般的な人生の意味はない
人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ

280
「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。

5/04/2016

OB戦のあとKayaksへ伝えたかったこと

5月3日(火)12時から泉キャンパスで行われたKayaksのOB戦(現役部員対OBの試合)のご案内をいただいたので、久しぶりに観戦してきた。

風がやや強く吹いていたものの、良く晴れてフットボールをするにはやや暑すぎるほど。ゴールデンウィーク後半初日にも関わらず、11名を僅かに超える現役部員よりもはるかに多い人数のOB/OGが駆けつけてくれていた。

試合はキッキング無しのスクリメージ形式で行われ、OBチームの方が長い時間ボールを支配していたが、試合は現役チームが勝ったようだった。

双方とも持ち味を出し、特にOBチームは、今春卒業したばかりの若いOBと、現役だったのはふた昔前?!といったOBとがうまく個性を出し合って、いい味を出していた。

さて、
OB戦のあと、久しぶりにみんなの前でひとこと喋る時間をいただき、現役部員はもちろん、この日集まったOB/OGを含めたKayaks全員に向けて、日頃考えていることを話させてもらった。

しかし、みんなの前で喋るのは本当に久しぶりで、もともと人前で話すのが苦手なこともあって、グダグダになってしまった。みんなに伝えたかったのは、まとめると次のようなことです。


Kayaksは、本学体育会に属するクラブです。
Kayaksにクラブとしての目的や目標があるように、本学体育会には規約第2条に明記された目的があります。

「体育会の目的」
本会は、東北学院大学の建学の精神に基き、体育活動を通じて心身を練磨し、会員相互の親睦を計り、其の成果をもって本学の名声を掲げ、且つ本学の発展に寄与すると共に有能なるリーダーを養成して社会に奉仕する事業を成す事を目的とする。

なぜ、大学に入ってまでスポーツをするのか、しかも大学を代表する体育会で厳しい練習に打ち込むのか、それは全てこの「体育会の目的」を達成するためでなければならないと私は考えています。

そして、後半の「有能なるリーダーを養成して社会に奉仕する事業を成す事」は、現役部員のみならず卒業してからも達成すべき目的であると私は考えています。

Kayaksは、アメリカンフットボールという競技スポーツを通じて、この体育会の目的を達成しなければなりません。

そのためには、まず、競技のルールを守るのはもちろんのこと、社会のルールやマナー、法律等を厳守しなければなりません。

そして、正しい技術や戦術・戦略を習得する近道は無く、地味で辛く苦しい反復練習しか勝利への道は無いことを学んで、そのことから、社会人として正しく生きることの意味を理解しなければなりません。

現役部員は、これらを意識して日々の練習や試合に臨む必要があり、監督・コーチは、これらを意識して現役の指導に当たる必要があります。

何のためにフットボールをするのか。
何のために大学に入ってまでスポーツをするのか。

ただ楽しみたい、上手くなりたい、体を鍛えたい、スポーツに関わりたいだけでは、体育会のクラブとしてその恩恵を享受する資格はありません。体育会の目的を必ず達成するのだという強い意志を持った者だけが、Kayaksのユニフォームを着ることが許され、マネージャーとしてサイドラインへの立ち入りが許され、卒業後にKayaksのOB/OGを名乗ることが許されます。また、監督・コーチとしてチームに携わることが許されます。

素直な気持ちでこれらの言葉を受け入れてください。
今後ますますのKayaksの活躍を心から応援しています。