【河北新報】
東北学院・初代院長の押川方義 生涯を振り返る図録発刊
学校法人東北学院(仙台市)は、学院創立者の一人で初代院長を務めた押川方義(1849~1928年)の生涯を振り返る図録「押川方義とその時代」を発刊した。明治初期のキリスト教徒として宗教界や教育界に多大な影響を与えただけでなく、政治活動や事業活動にも関わった押川の人物像を、写真や書簡などを通じて紹介している。
2004年に押川の家族から遺贈された段ボール70箱分の資料「押川家文書」を、文学部の河西晃祐准教授(日本近現代史)とゼミ学生が整理、図録に編集した。
2部構成とし、1部は押川の生い立ちや経歴をたどった。2部は国内のSF作家の先駆けとされる長男方存(春浪)、日本初のプロ野球球団を設立した功績で没後に第1回の野球殿堂入りを果たした次男清ら家族の著作や手紙を盛りこんだ。
さらに押川の幅広い活動や交友関係を伝える資料として、日本初の南極探検を行った白瀬矗(のぶ)=にかほ市出身=や、旧日本軍のスパイとされ「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子の手紙も収録している。
押川は松山藩の士族に生まれ、横浜で洗礼を受け日本最初期のプロテスタント信者となった。仙台に伝道の拠点を移して1886年に東北学院の前身「仙台神学校」をつくり、92年から1901年まで院長を務めた。
その後、活動を東アジア全域に拡大し、首相を務めた大隈重信との親交から朝鮮半島や中国大陸での利権にも関与した。
衆議院議員時代には皇太子(後の昭和天皇)妃の選考をめぐる「宮中某重大事件」で婚約破棄を主張する元老山県有朋と対立し、婚約成立に奔走した。晩年は石油開発にも参加した。
河西准教授は「押川は生前、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人だったが、帝国主義の時代に日本が取るべき道を常に考え続けた人だった」と話す。
A4判。178ページ。非売品。1000部作成し、希望者に送料負担で配布している。連絡先は東北学院資料室022(264)6538。
2013年07月29日月曜日
【引用ここまで】
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押川は、知名度こそさほど高くないものの、120年以上続く我らが東北学院(仙台神学校)を創立した功績を、それに連なる私たちがもっと誇りに思って良いと常々思っている。
押川が、慶應義塾の福澤諭吉、早稲田の大隈重信、同志社の新島襄らと共に並び称されるように、私たちが自らの仕事に誇りを持ち、いや、誇りを持てるように仕事に励んでいかねばならない。