2/01/2013

クリティカルシンキング

昨日、「批判的な人」と題して、私自身が物事に対して批判的な見方をする人間であること、一方で自分に対する批判は真摯に受ける人間であること、そして最近、他者に向けた批判が受け入れられなくなってきたこと、などを綴った。

これに対して、クリティカルシンキング(Critical thinking)というキーワードを投げかけてくれた方がいた。

クリティカルシンキングとは、直訳すれば「批判的思考」だが、ネットで調べてみると、論理的かつ構造的に考えること、あるいは客観的かつ分析的に理解するスキルのこととあり、意味合いに若干のバラつきが感じられるが、要するに物事を論理的・客観的に捉えて自分自身の考えを構築していくことで、批判の矛先はあくまで自分自身であり、他者に向けられたものではない。
【参考サイト】
【ご報告とちょっと大学紹介】国際基督教大学を卒業しました。(GREAT GEEKS)
連載:「問題解決力」を高める思考スキル(1)(@IT自分戦略研究所)

このキーワードを投げかけてくれた方は、私の思考において、批判的であることを否定せず、ただ他者にその矛先を向ける行為を止めるだけで良いということを示唆してくれた。

自己否定はさらに疲弊を増幅させる。クリティカルシンキングによって自分自身の考えを客観的に分析し、誤りがあればそれを正し、自己肯定の道を歩むことでより良い人生を歩むことができる。

また、最近、自分が他者に受け入れられなくなっているという印象を持つことに対しては、植物に例えれば、今は根を張って地道に力を蓄える時で、時が来たら一斉に芽吹き、花を咲かせれば良いということを示唆してくれた。確かに、焦りもまた疲弊を生む。

愛読書、松下幸之助の『道をひらく』にもこうある。

 時を待つ心

何ごとをなすにも時というものがある。時--それは人間の力を超えた、目に見えない大自然の力である。いかに望もうと、春が来なければ桜は咲かぬ。いかにあせろうと、時期が来なければ事は成就せぬ。冬が来れば春はま近い。桜は静かにその春を待つ。それはまさに、大自然の恵みを心から信じきった姿といえよう。
わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つことは僥倖を待つに等しい。静かに春を待つ桜は、一瞬の休みもなく力をたくわえている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。
時を得ぬ人は静かに待つがよい。大自然の恵みを心から信じ、時の来るを信じて、着々とわが力をたくわえるがよい。着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る。
待てといわれればなおあせるのが人情である。だが、自然の理はわがままな人情には流されない。冷たいのではない。静かに時を待つ人には、暖かい光を注ぐのである。おたがいに時を待つ心を養いたい。
(松下幸之助 『道をひらく』 pp.14-15 PHP研究所 昭和43年)

思慮深い示唆をくださった方に心から感謝です。

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