4/28/2016

とある会議のような

とある会議のような集まりで、
長老の口から出てくる登場人物は「教員」と「学生」。
「職員」という単語は、ただの一度も出て来なかった。

確かに
歴史的に見て、「教員」と「学生」が「大学」を作った。
12世紀のヨーロッパだったかな?
本学も、明治の頃に数名の「教員」と「学生」によって生まれた。
今から130年前の話だ。

複雑な現代社会においては、「職員」も大学にとって必要な要素であることは認められていると思う。「職員」抜きで煩雑な事務を取り扱うことは事実上不可能だからだ。
それでもやはり、こうした時々に、本当には必要とされていない感、認められていない感をひしひしと感じる。

その程度の能力しか持っていない、認めるに値しない、と評価されている。
そうした評価を覆そうと、努力してきた。努力している。
個人としてはもちろん、「職員」として、努力してきた。努力している。
それでもまだまだまだまだまだまだ足りないということを実感した。
ということだな。

努力が足りないというか、
認められるなんてこと、未来永劫、無いのかも知れない。

「教員」と「職員」は、立場が違う職種である、担うべき分野が異なっているのだ、そんなことは、理屈ではわかっている。
わかった上で、悔しい。虚しい。

そうして考えてみると、今取り組んでいるStaff Developmentなんてバカバカしく感じてしまう。
認められないマイノリティたちの自慰行為。
本当に「職員」の存在価値が認められて、ちゃんとSDをしようとするなら、専門の「教員」が関わってきて「職員」をちゃんと教育するんだろうな。
悔しいけど、本気でSDを考えたら、そっちの方が正しい。

スポーツに例えれば、選手だけで練習するのと、コーチに指導してもらうのとの違い。選手たちだけで集まって、どんなに一所懸命考えて練習したって、コーチに指導してもらった方がずっと良い。安全に、正しく早く強くなれる。

さて、
これからどうするか。

30年も「職員」として働いてきて、何を今更言ってるんだ、って気もしないでもないが、とりあえず、これまで頑張ってきた立ち位置から一歩下がって、俯瞰して見てみよう。

それで、改めて考えてみるということだな。
今「職員」に求められることに満足するかどうか。
満足できないから不平不満でイライラして凹んでる。一旦後退して、眺めてみて、満足するかどうか考えてみよう。

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