8/14/2013
8/12/2013
今日のワークアウト
ルート: Ursinus College Patterson Field
ランタイム: 38:31
停止時間: 0:56
距離: 8.66 km
平均: 4:27 /km
最高ペース: 3:59 /km
登り: 0 メートル
降り: 0 メートル
カロリー: 391
Dormitryの隣のトラックを走った。
どうやら400mトラックをぐるぐる回るような動きにGPSは対応できないらしく、ものすごく速いペースで走ったようになっているが、実際にはキロ8分程度のゆっくりとしたペースでランニングを楽しんだ。
今日のCollegevilleは晴れ。体感で28〜30℃ぐらいあるが、カラッとしているのでさほど暑く感じない。
なかなか良い気分だ♪
Collegeville Car Show
日曜日、UCのキャンパス前のメインストリートが封鎖され、Collegeville Car Showが開催されていた。
皆どれも美しく迫力があるが、中でもこの青のカマロはズバ抜けて美しい!
が、
やっぱり赤くて小さいオープンは魅力的だな!?
8/10/2013
Trappe Tavern
We (Director and I) went to Trappe Tavern tonight. It was better than yesterday's.
I could watch Football on TV at there. Patriots vs Eagles. Pre season game, maybe.
8/09/2013
My Friends Tavern
学生たちのプログラム終了後、同行している先生とふたりでパブへ。ずっと学内にいたから、ようやくアメリカに来た!(ここはアウェイだ!?)って感じ?!
ワインはメルローにしたけど、かなり甘い! ま、他は聞き取れなかったのでずっとメルローで。
8/08/2013
I enjoyed playing football.
アメリカ滞在2日目の夕食後、午後7時過ぎから、男子学生7人とCollinと私とでタッチフットボールを楽しんだ。
学生たちはルールも分からずちんぷんかんぷんだったが、取り敢えずやってみようということで始めて、2シリーズ終わる頃には、「フットボールって楽しい!」とみんな言ってくれた。
私への気遣い?もあろうが、人工芝の綺麗なグラウンドで思い切り走り回って、楽しくないハズがない! やっぱりフットボールってこういう環境の中で進化していったんだな、ということを強く感じた。
フットボールのあと、女子学生と合流して幾つかの走り回るゲームをして今日のプログラムは終了。そして今は、
Dormitoryの地下で、アメリカで初めての洗濯中です。
(只今の時刻は8月7日の21:23です)
8/07/2013
8/05/2013
8/02/2013
8/01/2013
麦とろろ定食
今日のランチは久しぶりの小太郎にて、麦とろろ定食、750円。
いよいよ来週に迫ったASP(American Studies Program 短期の留学プログラム)の学生付き添いによる渡米を前に、食いたいものを食っておこう!というワケでは全然ないが(何しろただ今痛風の発作中)、留守中面倒を掛ける職場の後輩と一緒に、小太郎へ行ってきた。
久しぶりの麦とろろ定食は、牛タンも柔らかかったし、とろろも青海苔の風味が何とも言えず食欲をそそったが、スープが…テールスープが、具(テール)の入っていない、ただの塩コショウスープになっていた!?
でも、美味かったっす。
ごちそうさま。

CZちゃん、留守中(帰国後も)よろしくお願いしますっ!
いよいよ来週に迫ったASP(American Studies Program 短期の留学プログラム)の学生付き添いによる渡米を前に、食いたいものを食っておこう!というワケでは全然ないが(何しろただ今痛風の発作中)、留守中面倒を掛ける職場の後輩と一緒に、小太郎へ行ってきた。
久しぶりの麦とろろ定食は、牛タンも柔らかかったし、とろろも青海苔の風味が何とも言えず食欲をそそったが、スープが…テールスープが、具(テール)の入っていない、ただの塩コショウスープになっていた!?
でも、美味かったっす。
ごちそうさま。

CZちゃん、留守中(帰国後も)よろしくお願いしますっ!
7/31/2013
7/29/2013
送別ランチ
Kayaks OBで、私が監督としてのラストシーズンにエースランニングバックとしてチームを牽引してくれたNZMが大学院を終え、今夏実家に帰ることになった。引っ越しは来月らしいが、とりあえず今月末で実際には帰ってしまうということで、ふたりで送別ランチを食べに行った。
彼は、たぐい稀なボディバランスの持ち主で、1年生の時、入部前の体験会のフラッグフットボールで見せた走りは、その後の4年間でKayaksがリーグ戦全敗のドン底から入替戦勝利まで成長するであろうことを予感させるほどのものだった。
天は二物を与えず、性格に相当の難(?)があったが、Kayaksでの4年間で、彼は人間的にも大きく成長した。
特に、彼の現役最終戦となった1部最下位との入替戦で、途中負傷して試合に出られなくなったあとの彼の声援が、試合をしている選手のみならず、サイドラインで指揮を取る私にどれだけ多くの勇気を与えてくれたことか。試合に出れないことを嘆くことなく、チームを勝利に向けて鼓舞し続けた彼の声は、その言葉の意味だけでなく、これまでの4年間でここまで人間的に成長した部員を擁すKayaksが負けることなど決してない、と誰をも確信させるものであった。
成長の陰には、本人の努力も当然あったろうが、チームメイトに恵まれたことを決して忘れないで欲しい。多くの仲間を得、先輩、後輩とのつながりのひとつひとつがNZMを成長させた。これからの長い人生においても、そうした人とのつながりを大切にして、フットボールを通して得た経験を十分に活かして、社会に大いに貢献していって欲しい。
頑張れ、NZM!
彼は、たぐい稀なボディバランスの持ち主で、1年生の時、入部前の体験会のフラッグフットボールで見せた走りは、その後の4年間でKayaksがリーグ戦全敗のドン底から入替戦勝利まで成長するであろうことを予感させるほどのものだった。
天は二物を与えず、性格に相当の難(?)があったが、Kayaksでの4年間で、彼は人間的にも大きく成長した。
特に、彼の現役最終戦となった1部最下位との入替戦で、途中負傷して試合に出られなくなったあとの彼の声援が、試合をしている選手のみならず、サイドラインで指揮を取る私にどれだけ多くの勇気を与えてくれたことか。試合に出れないことを嘆くことなく、チームを勝利に向けて鼓舞し続けた彼の声は、その言葉の意味だけでなく、これまでの4年間でここまで人間的に成長した部員を擁すKayaksが負けることなど決してない、と誰をも確信させるものであった。
成長の陰には、本人の努力も当然あったろうが、チームメイトに恵まれたことを決して忘れないで欲しい。多くの仲間を得、先輩、後輩とのつながりのひとつひとつがNZMを成長させた。これからの長い人生においても、そうした人とのつながりを大切にして、フットボールを通して得た経験を十分に活かして、社会に大いに貢献していって欲しい。
頑張れ、NZM!
初代院長の押川方義 生涯を振り返る図録発刊
【河北新報】
東北学院・初代院長の押川方義 生涯を振り返る図録発刊
学校法人東北学院(仙台市)は、学院創立者の一人で初代院長を務めた押川方義(1849~1928年)の生涯を振り返る図録「押川方義とその時代」を発刊した。明治初期のキリスト教徒として宗教界や教育界に多大な影響を与えただけでなく、政治活動や事業活動にも関わった押川の人物像を、写真や書簡などを通じて紹介している。
2004年に押川の家族から遺贈された段ボール70箱分の資料「押川家文書」を、文学部の河西晃祐准教授(日本近現代史)とゼミ学生が整理、図録に編集した。
2部構成とし、1部は押川の生い立ちや経歴をたどった。2部は国内のSF作家の先駆けとされる長男方存(春浪)、日本初のプロ野球球団を設立した功績で没後に第1回の野球殿堂入りを果たした次男清ら家族の著作や手紙を盛りこんだ。
さらに押川の幅広い活動や交友関係を伝える資料として、日本初の南極探検を行った白瀬矗(のぶ)=にかほ市出身=や、旧日本軍のスパイとされ「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子の手紙も収録している。
押川は松山藩の士族に生まれ、横浜で洗礼を受け日本最初期のプロテスタント信者となった。仙台に伝道の拠点を移して1886年に東北学院の前身「仙台神学校」をつくり、92年から1901年まで院長を務めた。
その後、活動を東アジア全域に拡大し、首相を務めた大隈重信との親交から朝鮮半島や中国大陸での利権にも関与した。
衆議院議員時代には皇太子(後の昭和天皇)妃の選考をめぐる「宮中某重大事件」で婚約破棄を主張する元老山県有朋と対立し、婚約成立に奔走した。晩年は石油開発にも参加した。
河西准教授は「押川は生前、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人だったが、帝国主義の時代に日本が取るべき道を常に考え続けた人だった」と話す。
A4判。178ページ。非売品。1000部作成し、希望者に送料負担で配布している。連絡先は東北学院資料室022(264)6538。
2013年07月29日月曜日
【引用ここまで】
--
押川は、知名度こそさほど高くないものの、120年以上続く我らが東北学院(仙台神学校)を創立した功績を、それに連なる私たちがもっと誇りに思って良いと常々思っている。
押川が、慶應義塾の福澤諭吉、早稲田の大隈重信、同志社の新島襄らと共に並び称されるように、私たちが自らの仕事に誇りを持ち、いや、誇りを持てるように仕事に励んでいかねばならない。
東北学院・初代院長の押川方義 生涯を振り返る図録発刊
学校法人東北学院(仙台市)は、学院創立者の一人で初代院長を務めた押川方義(1849~1928年)の生涯を振り返る図録「押川方義とその時代」を発刊した。明治初期のキリスト教徒として宗教界や教育界に多大な影響を与えただけでなく、政治活動や事業活動にも関わった押川の人物像を、写真や書簡などを通じて紹介している。
2004年に押川の家族から遺贈された段ボール70箱分の資料「押川家文書」を、文学部の河西晃祐准教授(日本近現代史)とゼミ学生が整理、図録に編集した。
2部構成とし、1部は押川の生い立ちや経歴をたどった。2部は国内のSF作家の先駆けとされる長男方存(春浪)、日本初のプロ野球球団を設立した功績で没後に第1回の野球殿堂入りを果たした次男清ら家族の著作や手紙を盛りこんだ。
さらに押川の幅広い活動や交友関係を伝える資料として、日本初の南極探検を行った白瀬矗(のぶ)=にかほ市出身=や、旧日本軍のスパイとされ「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子の手紙も収録している。
押川は松山藩の士族に生まれ、横浜で洗礼を受け日本最初期のプロテスタント信者となった。仙台に伝道の拠点を移して1886年に東北学院の前身「仙台神学校」をつくり、92年から1901年まで院長を務めた。
その後、活動を東アジア全域に拡大し、首相を務めた大隈重信との親交から朝鮮半島や中国大陸での利権にも関与した。
衆議院議員時代には皇太子(後の昭和天皇)妃の選考をめぐる「宮中某重大事件」で婚約破棄を主張する元老山県有朋と対立し、婚約成立に奔走した。晩年は石油開発にも参加した。
河西准教授は「押川は生前、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人だったが、帝国主義の時代に日本が取るべき道を常に考え続けた人だった」と話す。
A4判。178ページ。非売品。1000部作成し、希望者に送料負担で配布している。連絡先は東北学院資料室022(264)6538。
2013年07月29日月曜日
【引用ここまで】
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押川は、知名度こそさほど高くないものの、120年以上続く我らが東北学院(仙台神学校)を創立した功績を、それに連なる私たちがもっと誇りに思って良いと常々思っている。
押川が、慶應義塾の福澤諭吉、早稲田の大隈重信、同志社の新島襄らと共に並び称されるように、私たちが自らの仕事に誇りを持ち、いや、誇りを持てるように仕事に励んでいかねばならない。
7/25/2013
7/24/2013
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